◎ 雲屋 ◎
「世界ってなんて狭いんだろう。」
彼のお気に入りのティーカップに並々と注がれた、紅茶。
桜の花びらがゆらゆらとたゆたう紅茶は、やはり仕事での御礼の品である。
ふんわりと香る春の葉の香りと暖かい陽気を楽しみながら彼はゆったりとした時間を送っている。
先程まで仕事に出ていたので、道具はまだ鞄の中だ。
雲を描く仕事を生業にして幾分か時間がたち、次第に彼は『雲屋』と呼ばれるようになっていった。
本当は職業なのだが、いつもこう呼ばれるので彼自身名前を忘れてしまった。
片付けるのは後でもいいだろう、彼はそう考えて先程からバタークッキーと紅茶を交互に味わっている。
「世界は狭いものさ、それは前も話したじゃん。
仕方ないことだよ。」
机の上で砂時計がさらさらと零れる砂の声を落とす。
窓の外にはひらりと散る薄い桃色の桜と真っ青な空。暖かい陽射しは植物や動物、大地に恵みを与える。
どこか居眠りをしたくなる程の陽気に照らされながら彼は紅茶を啜る。
「また話したくなったんだよ。
会話は僕にとって大切な事であり、人生で有意義な時間だからね。
とにかく僕にとって、僕だけの世界は狭い事に変わりは無いんだよ。」
同じ会話をしたのはいつだったか、一人と一つは忘れてしまったがやはり前と変わらない会話を続ける。
桜がひらひらと窓の外で散る。暖かい陽射しはぬくぬくと彼の体を包んでいく。
「そりゃそうさ。君一人の世界は狭いよ。
だからそういう時は誰かに会いに行きなって言ってるじゃないか。
人が集まって世界は広くなるものなのだから。」
「そうだね、言う通りだよ。
世界は人が集まって初めて大きくなるものだからね。
一人の世界は小さいけれどたくさん集まればその分だけ世界が広くなるから。」
こんがりとした狐色のバタークッキーは焼き立てで、まだ暖かいままだ。
何個目か彼にはわからないが、それはサクサクと音を立てて口の中でバターの甘味を残していった。
そのやわらかなふわりとした甘さを、彼はゆっくりと味わう。
「もしくは、散歩でもいいから外に出てみるものだね。
部屋の中じゃじめじめと辛気臭くなって仕方ないよ。
外の景色を見て歩くだけでも世界は広がる。」
「そうだね、後で外にでも出て適当にふらふらしてみようか。
図書館にでもいけば管理人にも会えるし本だって読める。」
そう言いながらも尚もお茶を啜る彼。砂時計は図書館は久しぶりだなぁと砂を揺らす。
空間を支配するのは砂時計のさらさらした声、ティーカップを置く涼しい音、バタークッキーが彼の口の中で砕ける音、ゆっくりと時間を刻む時計の針の音。
そうして全てを包むような、心地の良い太陽の温もり。春の草花達の独特の匂い。空はやはり晴れ渡っている。
「世界は一つだけではないんだね、こうして砂時計といるだけでも世界は二つだから。
けれどもそれが一つになった時、とても大きな世界になる。
僕が知らない世界になって、僕にたくさんの事を教えてくれるんだ。」
砂時計は、さらさらと声を零す。砂粒が光に当たりキラキラと机に反射している。
「世界は目だもの。世界は耳だもの。世界は体の全てであり、世界は心の全てでもあるからね。
僕が感じて考えた事を話すだけで、君の世界は広がっていく。そうして僕の世界も広がっていく。
一石二鳥じゃないか。あぁ、僕の砂粒が光に当たって小さな星空みたい、そう思わない?」
彼は仕事で使ったコートをもう一度羽織ると、あぁ本当だ綺麗だね、と生返事をしてティーセットを片付けていく。
砂時計は彼に抗議の声を送ったが、彼には聞こえない。
図書館の管理人と食べる為に、残りのバタークッキーを丁寧にナプキンに包んでいく。そうして最後の一つを口に放り込む。
「さぁ、行こうか。クッキーも包んだし。陽射しも暖かいし、散歩日和だよ。」
砂時計をコートの胸ポケットにすとんと入れる。砂時計にとっては定位置だ。
砂時計はまだ一人で、綺麗だなぁと言っている。
蝶番が古いのか、少し重い木の扉を手で押すと、彼と砂時計の前には色とりどりの春の景色が広がった。
そうしてやはり晴れ渡っている真っ青な空を見上げて一言呟く。太陽の光は少し強く目を射していく。
「あぁ、やっぱり僕はいい仕事してるなぁ。綺麗な空に見事な雲だ。
あの雲なんかいいんじゃないかな?そう思わないかい?」
砂時計はポケットから、あぁそうだね本当だ、と生返事をしてさらさらと砂を落としていく。
「やっぱり世界は広いね、見事なもんだ。さぁ本を読みに行こう。何を借りる?」
同じ会話をしたのはいつだったか、一人と一つは忘れてしまったがやはり前と変わらない会話を続ける。
桜がひらひらと目の前で散る。暖かい陽射しはぬくぬくと彼と砂時計を包んでいく。
そうして、一人と一つはクッキーを片手に散歩に出かけた。
2008/11/12 執筆